常任委員のつぶやき

夏の思い出

 
6・7月の長雨で涼しかった分、8月の暑さはさすがに身体に堪えました。
9月に入ってから、なかなか疲れが取れないようなだるさを感じている方が周りにも多いようです。
皆さま、この夏はどのように過ごされましたか?
 
卒業してウン十年。毎年8月になるとつぶやく同じ言葉・・・。
「追分に行きたーい!」
そう、晴れた日は浅間山がきれいに見える、東京よりマイナス5℃以上の別世界・軽井沢追分寮です。
 
まず、中学1年生のクラス単位の宿泊。
ちょうど学校生活に慣れたころ、数日とはいえ親元を離れての外泊ということで、2段ベッドで夜遅くまでおしゃべりが弾み、「早く寝なさーい!」と何度も先生に叱られました。
 
中学2年生からは憧れの合宿参加ですが、私は練習が(わりあい)ゆるい文化部に属していたので、先輩方のふだん知ることが出来ない一面を見たり、聞いたりで、楽しい思い出が一杯です。クラブを2つかけ持ちをしていたこともあるので、ひと夏に2度追分寮に行ったこともあります。
 
写真部の時は、撮影と称して寮の近くを散策したので、あの付近には詳しくなり、当時は「夏=追分でちょっとだけ優雅な夏休み」という図式が自分の中で出来上がりました。
 
卒業後何年も経ってからですが、調理の手伝いに12日間ほど追分寮に詰めたこともあります。育ち盛りの何十名もの生徒さんの食事づくりですから色々気を使うこともありましたが、献立を組んで、材料を発注して、やはりお手伝いに来てくれた後輩たちと朝から晩まで和気あいあい調理室で過ごしたのは、私にとって卒業後のクラブ活動という感じで、今もその時のことを懐かしく思い出します。
 
学園の追分寮は老朽化により、残念ながら現在使用されていません。
夏の合宿は、それぞれのクラブが探した快適な宿舎等で練習に励んでいるようです。
それはそれで羨ましいのですが・・・。
あの2段ベッドでまた、同級生や先輩・後輩達とたわいないお喋りをしたいと思うのは、私だけでしょうか?

 
K/T
 
 
 

図書室

 
梅雨入りしてから1か月。雨の降る休日は、皆さまどのようにお過ごしですか?
最近、仕事で調べ物が多く、地元のみならず隣の市の図書館にも出没しています。特に資料が揃った中央図書館は、どこも蔵書数もさることながら、閲覧席やレファレンスサービスが充実していますね。
 
40年以上も昔の話ですが、私の中学受験の際も三輪田の図書室の充実は、志望校選定の決定打になりました。施設だけでなく、「図書の時間」があり、他の教科同様、カリキュラムにしっかりと組み込まれていました。系統だった読み方をするようになったのも、司書の先生のご指導のおかげだと今になって改めて感謝しています。部屋の中に「つんどく」も何冊かありますが、忙しくても暇を見つけては本を手に取るようにしています。

昨年の学校案内は、本をモチーフにしたもので、「あぁ、三輪田らしいな」と思いました。本を広げた形は、まるで羽を広げた鳥のようですね。ページをめくる私たちを過去や未来、遠い外国やおとぎの国にいざなってくれます。
 
昨年の春の中学入学式に三輪田グッズ販売をした際、校舎の2階の踊り場で懐かしい大机を見つけました。
向かい合った四人掛け、仕切りにすりガラス入り。
懐かしく思った方は、同年代の皆さまでしょうか?
そう、以前の図書室の自習コーナーにあったあの机です。
新校舎・新図書室が出来ても、ここでひっそりと余生を送っていました。



今度、学校へいらした際は、ぜひご自身でご確認ください。
思わず腰かけて、本が読みたくなりますよ! (K/T)
 

 

京都への誘い<後編>

<前編>はこちら

明倫舎
 
 現在の住まい橋弁慶町は祇園祭の山鉾の一つである橋弁慶山を持つ山鉾町の一つです。そしてこの界隈は明倫学区と呼ばれ明倫小学校を拠点とする地区です。余談ですが、京都では明治の初めに学校教育を重要視して、地区毎に町人が資金を出し合って小学校を作ったために地区の結びつきが未だに強く、避難情報なども行政区画とは関係無くこの学区毎に出されるほどです。今は京都芸術センターとなっているこの明倫小学校の元になったのが明倫舎ですが、そう聞いて眞佐子先生の松山での明倫学舎を思い出しました。


 
 早速調べてみましたところ、芸術センターにある由来の銅版によりますと「天明2年(1782年)手嶋渚庵はその師石田梅若が創唱する所の心学を講習し鴨東三条北に明倫舎を設けた。子の和庵がこれを錦小路烏丸西入る占出山町に移し三代淇水その後を受け更に拡充に勤めたのでその門に入る者益々多きを加えた。その多くは市中の商人で、質素倹約信義を重んじて家業の繁栄をいたした。近世町人の精神修行の場として明倫舎はその中心としてあった。京都市が全国にさきがけて小学校の設立を企図するやいち早く明倫舎を転用し新時代の国民教育の基礎を定めた」とあります。残念ながら、他の資料をあたっても明倫舎と明倫学舎の結びつきを示す資料はありませんでしたが、三輪田眞佐子先生は 現在の京都府亀岡市で儒学者の家にお生まれになりましたし、手嶋渚庵の師石田梅若もまた亀岡市のお生まれだそうです。加えて、三代淇水の幕末の時期は幼児教育-女子教育にも取り組んでいたようですので、最初のご自身の塾を明倫舎に因んで明倫学舎と名付けられたとしても不思議ではありません。想像を逞しくして、若き日の眞佐子先生がこの辺りの生意気な商家の子供たちに祇園祭の鉾や山の古事の説明をしていらしたのではと思うと一気に祇園祭が身近なものに変わりました。 


祇園祭(おまけ)

 祇園祭は平安京以来の歴史に深く関わっていて、三輪田で学びました古文漢文歴史美術と知識全開にして楽しめるとても興味深いお祭りです。因みに元明倫舎、現在の京都芸術センターのある占出山町の占出山は神功皇后が出陣に際して肥前国松浦川で鮎を釣って戦勝の兆しとしたとする説話に由来し、神功皇后は安産の神としても有名です。 


 
 京都芸術センターの北側の私の住む橋弁慶町(京都の中心部の町は通りを挟んだ両側で一つの町となる両側町です!)の橋弁慶山は謡曲「橋弁慶」が由来で牛若丸と弁慶が五条の橋の上で戦う様を表しています。
暑い盛りですが、是非一度いらして下さい。宵山も模擬店がいろいろ出て楽しめること請け合いです。

 
河邊けい子(高校18回)

京都への誘い<前編>

上洛まで

 松操会常任委員の河邊(こうべ)けい子です。常任委員を20年近く勤めさせていただいたおかげで、18回生の同期だけでなく会員の皆さまと絆を作ることができました。生涯の宝物と感謝しております。
 この20年の間のことを思うとき、先ずはよく引っ越しをしたなぁということです。常任委員を始めたころは吾妻橋に住まっておりましたが、その後月島、浜町、曳舟と隅田川を上ったり下ったり、『引越』が趣味の夫に同行して、三年周期で転居し続けました。そして終に京都へ。しかし、上洛してもまだ引っ越しは続き、また三度転居しました。
 京都に移り住んで転居する度にその先々の土地が三輪田学園と浅からぬ関わりがあることに気付きました。そこで皆様にも是非京都にお越しいただいて、修学旅行とは一味違った京都を見つけるきっかけになればと思い、拙文をしたためました。 


京都での三輪田学園のご縁

 何と京都での初めての住まいは、三輪田学園の修学旅行の常宿だった日昇別荘の向かいの路地(京都ではロージと読みます!)を入った所でした。日昇別荘は娘も修学旅行でお世話になったところで、何か不思議なご縁を感じました。 

  
 
修学旅行と言えばもう一つ、私の半世紀ほど前の修学旅行の時に母に頼まれたお土産を買った「三條本家みすや針」の古い看板を、その日昇別荘のある三条通り沿いの商店街のビルとビルの隙間に発見しました。三条界隈の街並みもそうですが、京都というところは古いものが新しいものに混じって根強く頑張っているのを実感します。 



三輪田眞佐子先生の京都

 京都で二番目の住まいはどちらかと言うとオフィスが多く、三輪田学園とのご縁は無いものと思っていましたが、否々、眞佐子先生と繋がりがありました。地下鉄烏丸線で一駅の丸太町駅近く、京都御所の丸太町に近いところに、昨年放映されたNHKの大河ドラマ「西郷どん」で有名になった岩倉具視卿邸宅がありました。三輪田眞佐子先生は、慶応3年岩倉邸に招かれ卿の息女の教育を担当し、明治元年(1868年)に内殿侍講に任命されました。そして明治2年2月23日に岩倉卿の計らいで女流勤皇の志士の松尾多勢子らの媒酌で勤皇の志士三輪田元綱と結婚式を挙げられております。因みに、御所内の岩倉邸は他の公家邸と共に九条邸を残し撤去されてありませんが、岩倉卿の幽閉宅は同じく地下鉄烏丸線の終点の国際会館駅から2kmほど北に位置し、現在国指定史跡『岩倉具視幽棲旧宅』として観光施設となっています。