常任委員のつぶやき

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京都への誘い<後編>

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明倫舎
 
 現在の住まい橋弁慶町は祇園祭の山鉾の一つである橋弁慶山を持つ山鉾町の一つです。そしてこの界隈は明倫学区と呼ばれ明倫小学校を拠点とする地区です。余談ですが、京都では明治の初めに学校教育を重要視して、地区毎に町人が資金を出し合って小学校を作ったために地区の結びつきが未だに強く、避難情報なども行政区画とは関係無くこの学区毎に出されるほどです。今は京都芸術センターとなっているこの明倫小学校の元になったのが明倫舎ですが、そう聞いて眞佐子先生の松山での明倫学舎を思い出しました。


 
 早速調べてみましたところ、芸術センターにある由来の銅版によりますと「天明2年(1782年)手嶋渚庵はその師石田梅若が創唱する所の心学を講習し鴨東三条北に明倫舎を設けた。子の和庵がこれを錦小路烏丸西入る占出山町に移し三代淇水その後を受け更に拡充に勤めたのでその門に入る者益々多きを加えた。その多くは市中の商人で、質素倹約信義を重んじて家業の繁栄をいたした。近世町人の精神修行の場として明倫舎はその中心としてあった。京都市が全国にさきがけて小学校の設立を企図するやいち早く明倫舎を転用し新時代の国民教育の基礎を定めた」とあります。残念ながら、他の資料をあたっても明倫舎と明倫学舎の結びつきを示す資料はありませんでしたが、三輪田眞佐子先生は 現在の京都府亀岡市で儒学者の家にお生まれになりましたし、手嶋渚庵の師石田梅若もまた亀岡市のお生まれだそうです。加えて、三代淇水の幕末の時期は幼児教育-女子教育にも取り組んでいたようですので、最初のご自身の塾を明倫舎に因んで明倫学舎と名付けられたとしても不思議ではありません。想像を逞しくして、若き日の眞佐子先生がこの辺りの生意気な商家の子供たちに祇園祭の鉾や山の古事の説明をしていらしたのではと思うと一気に祇園祭が身近なものに変わりました。 


祇園祭(おまけ)

 祇園祭は平安京以来の歴史に深く関わっていて、三輪田で学びました古文漢文歴史美術と知識全開にして楽しめるとても興味深いお祭りです。因みに元明倫舎、現在の京都芸術センターのある占出山町の占出山は神功皇后が出陣に際して肥前国松浦川で鮎を釣って戦勝の兆しとしたとする説話に由来し、神功皇后は安産の神としても有名です。 


 
 京都芸術センターの北側の私の住む橋弁慶町(京都の中心部の町は通りを挟んだ両側で一つの町となる両側町です!)の橋弁慶山は謡曲「橋弁慶」が由来で牛若丸と弁慶が五条の橋の上で戦う様を表しています。
暑い盛りですが、是非一度いらして下さい。宵山も模擬店がいろいろ出て楽しめること請け合いです。

 
河邊けい子(高校18回)

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